道と路と未知のウラ側

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【ニ条城】世界遺産で歴史の息吹きに触れる

2023年10月に行った京都旅行の締め括りは、世界遺産古都京都の文化財」の一つとして登録されている二条城でした。

日時は10月5日9:00頃。

道路は堀川通で、二条城前は京都府道38号に相当しています。

道路の向こうに二条城の正門・東大手門が見えます。現存するこの東大手門は1662年頃の建築と考えられているそうです。

その左側に見えるのが東南隅櫓。

東大手門から入ると次は唐門をくぐります。

日光東照宮を思わせるような豪華な唐門の彫刻。

唐門を抜けると、国宝・二の丸御殿前の広場になっていました。

二条城は天皇の住む京都御所の守護と、将軍上洛の際の宿泊所として徳川家康が1601年に築城を命じ、1603年に現在の二の丸部分が完成。

1624〜26年にかけて徳川秀忠・家光により大規模な増改築が行われ、本丸・二の丸・天守閣が完成して現在の規模になっています。

初代・徳川家康から第3代・家光の時代まで、征夷大将軍就任の際の入城や徳川家康豊臣秀頼の会見、禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の二条城への行幸など、二条城では歴史上の出来事も多くありましたが、以降は長く歴史の表舞台から姿を消しています。

しかし幕末になり政局が京都の地となった為、第14代・徳川家茂による230年ぶりの将軍入城、そして最後の将軍・徳川慶喜による1867年の大政奉還の舞台として、二条城は止まっていた時を再び刻み始めるのです。

この後、二の丸御殿内部を見学したのですが、残念ながら内部撮影は禁止。

あまりにも有名な頓田丹陵筆、二の丸御殿での『大政奉還』の図。

明治以降は1884(明治17)年に皇室の「二条離宮」となり、1939(昭和14)年に京都市へ下賜されて一般公開されるようになりました。

さて、二条城の二の丸御殿といえば「鶯張りの廊下」。

これは歩くと鳥が鳴くような音が聞こえ、永く敵の侵入を察知する為と言われて来たのですが、近年はその説が否定的になって来たのだそうです。

同じ「鶯張り」だった京都・知恩院では、修理した事で鳴っていた廊下が鳴らなくなったり、老朽化で鳴っていなかった廊下が鳴るようになったという事実から、どうやら単に経年劣化で廊下の金具が緩んだ事が原因である可能性が高くなったのです。

「忍び返し」というのは、あくまで結果論であり、人為的なものではなかったのですね。

特別名勝に指定されている二の丸庭園です。

名勝とは風景・景観が優れていて価値が高い文化財で、特別名勝は名勝の中でも価値が特に高いものです。

名勝を重要文化財とするならば、特別名勝は国宝に相当する、と例えればその位置付けが分かりやすいでしょうか。

今回の京都訪問でブログ筆者が直接目にした特別名勝は、ここの他に鹿苑寺金閣の庭園があります。

内堀に架かる東橋を渡って本丸に向かいます。

正面は本丸櫓門。

橋の袂からの内堀の眺め。

正面に本丸御殿が見えますが、残念ながら修繕中でした。

本丸御殿は1788年の天明の大火で一度焼失しており、現在の本丸御殿は明治の離宮時代に京都御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)の主要部分を移築したものです。その為、徳川家の二条城とは元々関係のないものですが、この旧宮邸は幕末時に孝明天皇の仮皇居となっていたり、皇女・和宮が暮らしていたりと由緒のある御殿だそうです。

本丸の南西隅にある天守閣跡に登ってみました。

二条城の天守閣は伏見城から移されたものでしたが、1750年の雷火で焼失してしまい、そのまま再建される事なく現在は石垣だけが残っています。

東橋とは反対側の西橋を渡って、内堀の外に出て来ました。

内堀の北西隅。奥に見えるのが西橋。

内堀の北側を回って戻ります。

内堀の北東隅。奥に見えるのが東橋と本丸櫓門。

二条城北側の北大手門。通行止めのようでした。

これで見るべきものは見たようです。

 

徳川の時代の始まりと終わりを見続けた二条城。

見物しながら当時の歴史的登場人物に想いを馳せるのもいいですね。

【渡月橋】京都嵐山の象徴的な名橋を歩く

嵐山・嵯峨野は京都観光の中でも人気の高いエリアの一つ。京都を旅行した際は外せないスポットです。

2023年10月に京都を訪れた時は、残念ながらスケジュールの都合で僅かの時間しか滞在出来なかった為、嵐山の象徴「渡月橋」に絞って見物してみました。

京福電鉄嵐山本線の電車(通称:嵐電)で嵐山駅にやって来ました。

駅構内のキモノ・フォレスト(京友禅による装飾)がとても京都らしくて目を引きます。

駅から徒歩5分程度で渡月橋の北端に到着。

日時は10月4日、16:30頃。

橋名は、鎌倉時代亀山上皇が橋の上空を月が移動していく様子を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたのが由来です。

流れる川は淀川水系桂川

836年に現在の位置から100~200m上流に架橋されたのがルーツとされ、1606年に今の位置に架け替えられたのが現代に至る渡月橋の原型になったそうです。

現在の渡月橋は1934(昭和9)年に完成したもので、全長155m、橋脚はコンクリート製、橋げたは鋼製。ただし欄干は景観に配慮して木造となっています。

右側のピークが標高382mの嵐山。

因みにブログ筆者の住む北海道・旭川市にも嵐山がありますが、これは明治期の開拓使の役人が視察した折に、京都の嵐山に似ている事から名付けられました。まあ、余談です。

渡月橋を歩いてみます。

橋の中央から東側、桂川下流方向の眺め。

桂川はこの先、京都盆地を南へ流れて伏見区で鴨川と合流し、更に大阪府との境で木津川、宇治川と合流して淀川となります。

渡月橋の南側方面。

橋は一般道路(府道29号)で自動車やバスも往来しているのですが、堂々と横断する観光客の姿も目立ちます。まあ、その殆どが日本人じゃないけれど。

もう少し進んで、視線をちょっと右側に。

見えている陸地は桂川の中州にある府立嵐山公園中之島地区。

尚、渡月橋を南側へ渡った正面の山腹には法輪寺という真言宗の寺院があって、関西で盛んな「十三参り」のお寺として非常に有名なのだとか。

十三参りとは、数え年で13歳になった子供が健康と多幸を願って寺社に参詣するもので、特に法輪寺の本尊が十三番目に誕生した知恵と福徳を司る虚空蔵菩薩である事から、このお寺には多くの関西の子供たちが十三参りに訪れるそうです。

ただし、法輪寺十三参りを行った帰路は「渡月橋を渡り終わるまで後ろを振り向いてはいけない、後ろを振り返ると知恵が本堂に帰ってしまう」という言い伝えもあるそうですよ。

桂川の上流方向。

桂川は流れる場所によって色々な通称があって、この渡月橋付近では大堰川(おおいがわ)、更に上流の保津峡付近では保津川と呼ばれたりしていますが、行政上の正式名称は全て桂川です。

橋の北側、飲食店やお土産屋さんが多い桂川の左岸。

 

11月下旬〜12月上旬の紅葉の時期はとても見応えがあるこのエリア。爆混みは必至でしょうが、人生に一度は時期を定めて訪れてみたい所です。

【鹿苑寺金閣】世界遺産での京菓子・抹茶セットは深い味わい

一般人が初めて京都旅行をしたならば、必ず行くであろうお寺が清水寺とこの鹿苑寺金閣だと思います。

2023年10月、約40年ぶりに京都を訪れたブログ筆者も御多分に洩れず、この仏閣に足を運びました。

京都の北山にある鹿苑寺

歴史の教科書に出て来た室町時代北山文化でもお馴染みです。

画像は総門で、日時は10月4日14:00少し前。

清水寺のように観光客でごった返している訳ではありませんが、やはり外国人比率は非常に高いです。

余りにも有名な鏡湖池越しの金閣

室町第3代将軍だった足利義満によって、1399年頃に完成したと推定されています。

義満は1394年に将軍職を子の義持に譲って出家した後も実権は手放さず、舎利殿として建立した金閣のある北山の山荘(北山第)を中心に政治を行いました。

義満の死後、1420年に北山第は彼の法号鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、臨済宗の禅寺となっています。

優美で美しいですね。

しかし鹿苑寺、この金閣以外は見るべき有名な建物はあまりないようです。

実は義満・義持親子には確執があって、父・義満の死後に義持は金閣以外の北山第の建物の多くを取り壊して整理してしまったとされています。

応仁の乱の戦火にも巻き込まれなかった金閣は昭和の時代には国宝に指定されていました。

しかし現在の金閣は昭和まで残っていた国宝・金閣ではありません。

1950(昭和25)年、鹿苑寺見習い僧侶による放火で焼失してしまったのです。犯罪で貴重な文化財が失われるのは大変残念な事ですね。

現在の金閣は放火事件から5年後の1955年に再建されたものです。

焼失前の金閣は現在のような金一色という状態ではありませんでしたが、明治期の大修理時のデータから創建時は外壁全体が金箔で覆われていたと推論された為に、再建の際は創建時の姿が復元されました。

現在の金閣は「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録されています。

金閣寺」というのはあくまで通称で、学生の歴史の試験では「金閣」あるいは「鹿苑寺金閣」と書かなければ✖️にされたのが思い起こされますね。

ひと通り境内を巡り終えた所に一服出来る茶処がありました。

金閣寺不動釜茶所」という何とも京都らしいお店だったので、庭園の方でお茶を頂く事にしました。

京和菓子付き抹茶セットで500円。

和菓子は京都市内の千本玉壽軒(せんぼんたまじゅけん)という和菓子屋さんが作る「銘菓 金閣」というそうで、金閣でしか売っていないのだとか。落雁の中に餡が入っていて、表面に小さな金箔が載っています。

抹茶はそんなに苦くなく穏やかな味。とても和菓子とマッチしていて美味しかったです。

まったりとしたひとときを過ごす事が出来ますよ。

【納涼床の店】「先斗町 いづもや」で京御膳を堪能

2023年10月の京都旅行では清水寺二年坂・三年坂エリアを巡った後、向かったのが鴨川に架かる四条大橋の西側・先斗町(ぽんとちょう)。

上の画像の道路は京阪電車祇園四条駅付近から八坂神社方向を見た四条通

このエリアが花街で有名な祇園になります。

今度は反対側の四条大橋からの鴨川の眺め。

納涼床のお店が並んでいますね。これからその一つに行きます。

掲載した画像ではよく分かりませんが、鴨川の納涼床では高床の桟敷席の下を禊川(みそそぎがわ)という鴨川から分流した人工水路が流れています。

2023年の鴨川納涼床の実施期間は5月〜10月まででした。

京都には納涼床の他に川床というのもありますが、実はこの二つは発音を含めた違いが存在するようなので、以下のサイトを参考に。

四条大橋を渡ると、直ぐ右手に狭い路地が北に伸びています。

ここが先斗町通丁度、路地の右側に提灯が見えますが、そこが今回ランチで訪れた「先斗町 いづもや」です。

因みに先斗町は「町」とは付きますが、地名としての先斗町はないのだそうです。

店内テーブル席から見た風景。おお、これはなかなか良いです。

当初は納涼床でと考えていたものの、お店の人に聞くと納涼床の開始時刻はもう少し後からとの事。待ってもよかったのですが、この後のスケジュールの都合もあるし、まあ、納涼といっても10月なので、わざわざ外で食べなくても・・・という事で店内で食事をしました。

時期的に納涼席の提供を終了している店も多いので、訪れる時期が微妙な際は事前の個別確認が必要です。

祇園」という御膳です。

価格帯の中では手頃なメニューなので特筆すべき一品があった訳ではないものの、みな美味しく頂きました。

印象に残ったのは、だし巻き玉子。

ブログ著者は北海道人で、食文化は関東にほぼ準じています。

関東のだし巻き玉子はだしに砂糖や濃口醤油を加えるなど甘く濃い味付けで、形もカッチリしていて焦げ目もあったりします。

それに対してこちら(関西)のだし巻き玉子は砂糖などは使わず、だしをふんだんに使い塩や薄口醬油で味を調えているそうなので、薄味でややしょっぱめ。形もふわふわしている印象です。

京都の料理を食べているんだなぁ~と強く感じました。

 

納涼床のあるお店は格式が高そうで、かつ予約制だったりと何かと敷居が高いイメージがありますが、「先斗町 いづもや」は予約が不要で料理の料金も手頃な範囲のメニューも多いので、気軽に京料理を楽しめるお店だと思いました。

【二年坂・三年坂】京都観光のド定番は外国人だらけ・その2

2023年の10月初頭に京都旅行に行ったのですが、4日に訪れた清水寺を参詣した後に散策したのが二年坂・三年坂です。

まさに観光のド定番コース。

清水坂をダラダラとお土産を買いながら下っていくと、右手にある狭い坂道が三年坂。丁度、五条通五条坂)と清水坂の交点付近です。

狭義には上画像の石段の坂道部分を指しますが、広義ではその先にある二年坂までの緩い起伏の石畳の路地も含まれるのが一般的です。

産寧坂(さんねいざか)が正式名称で、由来は清水寺の子安観音へ安産祈願をする為に登る坂である事から「産寧坂」となった、との説が有力なのだそうです。

石段の坂を下りて来ました。

更に石畳の道を少し進んで、石段の坂の方向を振り返ったところ。

京都らしい風情が最も感じられ、お土産屋さんや食べ物屋さんも多いので、時間があればゆっくり過ごしたいエリアですね。

二年坂は上の画像の路地右手に樹木が見え隠れしているところです。

二年坂の正式名称はニ寧坂(にねいざか)。

由来は産寧坂の下にある事から、また大同2(807)年に坂が整備された為、という説もあります。

三年坂に比べると坂は緩やか。

しかし「二年坂でつまずいて転ぶと二年以内に死ぬ」「三年坂でつまずいて転ぶと三年以内に死ぬ」という言い伝えがあって、お土産屋さんの中には厄除けとされる瓢箪(ひょうたん)を売っているお店もあります。転ばないお守りとして、昔から信仰があったんですね。

二年坂を進むと一年坂(一念坂)もありますが、この時はそこまでは進まず、引き返しました。

三年坂と二年坂の交点に戻って来ました。

この付近から「八坂の塔」が見え隠れしており、そちらの方に進みます。

古都の街並みと五重塔

京都随一と言っていい風景ではないでしょうか。和服姿の観光客がとても多くいました。

本格的な和装で記念写真を撮るのは殆どが外国人観光客。

八坂の塔の前までやって来ました。

お寺の名前としては法観寺なのですが、この五重塔以外には目立った建築物がない事から、「八坂の塔」が寺自体を指す通称として定着しています。

現在の塔は1440年、足利第6代将軍・義教の援助によって再建されたもの。境内には木曽義仲首塚があります。

このエリアの麓である東大路通方向へ更に進んで、改めて八坂の塔を振り返ります。

流石に周囲の建物も現代建築が多くなっています。この付近から東大路通沿いは和装レンタルのお店が沢山ありました。

 

スケジュールの都合で清水寺から単に下り歩いただけでしたが、可能なら清水寺参詣とセットで1日かけて一年坂から順に坂を歩いて過ごしてみたいものです。

【清水寺】京都観光のド定番は外国人だらけ・その1

2023年の秋、京都旅行に行った際の清水寺の記録です。

宿泊ホテルがJR京都駅前だったので、タクシーで五条通五条坂)を清水坂の交点まで行ってもらいました。

清水寺前の清水坂、10月4日9:00頃です。

早めに行ったつもりでしたが、既に観光客はそこそこ来ています。

さすが京都観光のド定番。

清水寺の正門・仁王門。

1469年に応仁の乱で焼失してしまいましたが、1500年前後に再建されました。右は三重塔。

古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている清水寺の創建は778年と伝えられています。

三重塔は847年に建てられ、現在のものは1632年に再建されたものです。

清水寺へは40年前にいわゆる修学旅行で来ていますが、もうそれ以来。全く記憶が無いですねぇ。

「胎内めぐり」が出来る随求堂(ずいぐどう)。

「胎内めぐり」とは、生まれ変わって願いを叶えてもらうように地下の暗闇の通路を通り抜ける儀式です。

筆者も初めてだったので、体験してみる事にしました(100円)。もっとも、その時は胎内めぐりの意義も理解せずに、だったのですが・・・

通路は想像以上に暗闇で、足元に気を付けつつ木や数珠で出来た手すりを頼りに約5分程度だったでしょうか、通り抜けることが出来ました。

とりあえず儀式完遂です(何も願わなかったので、意味ないか・・・)。

では本堂(国宝)の方へ向かいます。

本堂以降は拝観料が一般大人400円が必要となります。

本堂が見えてきました。

いわゆる「清水の舞台」です。

「清水の舞台」からの風景。

音羽山の急峻な崖に建築された本堂のこの舞台は高さ約13mとの事。

英米戦争開戦前、陸相(開戦時は首相)の東条英機が「時に清水の舞台から飛び降りる事も必要だ」と言ったとされますが、古来より「清水の舞台から飛び降りる」は ”重大な決意で物事にのぞむ” 事を表したことわざになっていました。

清水の舞台と京都市街地。定番の構図です。

これまた定番の三重塔と本堂の構図。

順路に沿って坂道を下って来ました。

寺名の由来となった「音羽の瀧」。

こんこんと流れ落ちる清水の御利益にあやかろうと、長い行列が。

下から清水の舞台を眺めます。

現在の舞台は1633年の再建だそうで、これは「懸造り(かけづくり)」という、格子状に組まれた木材同士が支え合う日本古来からの伝統工法との事。

北海道の人間にはあまり見る事が少ない彼岸花

寒さに弱い彼岸花は北海道では自生出来ないそうです。

「舌切茶屋」という変わった名前の境内茶屋で少し休憩しました。

ここで北海道に住む筆者の聞いた事のない「ひやしあめ」という飲み物があったので、頼んでみる事に。

ひやしあめ」とは関西を中心に夏によく飲まれる飲み物で、麦芽水飴をお湯で溶いて生姜の絞り汁を加えて冷やした飲み物だそうです。

う~ん、京都っぽい(?)お味。美味しく頂きました。

「舌切茶屋」の名前の由来は以下のサイトを参照に。

仁王門前に戻って来ました。

時刻は10:30頃。明らかに観光客が増えていました。

コロナ禍がひと段落して、修学旅行生以外は外国人の姿が圧倒的に目立ちます。

ワイワイ賑わう清水坂

長い年月デフレが続き、しかも円安なので外国人にとってはお得な旅行先となった日本。

日本は物価の高い国、だなんていつの話だっけ?

外国人にとっては今や物価の安い国なんだよね~。

【東寺・西本願寺・東本願寺】JR京都駅周辺の名刹を巡る

昨年の2023年10月上旬に京都旅行に行ったのですが、宿泊ホテルがJR京都駅前だったので、早朝に駅周辺の名刹を簡単に歩いて巡ってみました。

宿泊した「ホテル京阪 京都グランデ」の部屋の窓から見た風景。

10月4日朝、最初に向かった東寺。

教王護国寺とも呼ばれており、国宝の五重塔は高さが54.8mあって木造塔としては日本一の高さです。

目の前の道路は九条通で、東寺の前は国道1号に相当します。

五重塔のアップ。

東寺の創建は796年、五重塔は826年と伝えられているが、塔はこれまで4度火災で焼失しており、現在のものは1644年に建てられたものです。

今度は大宮通京都府道114号)を少し北に進んで東寺を撮影。

更に進んで慶賀門付近から撮影。

東寺という名称から、その対となる西寺も東寺と同じ頃に建てられましたが、1233年に五重塔が焼けて以降は衰退してしまい、廃寺になってしまいました。

 

そのまま北に向かい、今度は西本願寺前へやって来ました。西本願寺浄土真宗本願寺派の本山。

因みに画像の西本願寺前、左側の道路も国道1号堀川通)。

御影堂門。

御影堂とその右隣が阿弥陀堂。いずれも国宝です。そして先程の東寺と共に西本願寺は「古都京都の文化財」として、世界遺産の一つに登録されています。

実はここ、拝観料が無料なんですね。撮影時はそれを知らなかったので、境内手前までしか進みませんでした。

 

西本願寺から今度は東に向かい、やって来たのは東本願寺東本願寺は(浄土)真宗大谷派の本山。

画像は手前が阿弥陀堂門、奥が御影堂門。

御影堂門を北側から。

御影堂門を正面から。迫力があります。

御影堂とその左側が阿弥陀堂西本願寺と位置が逆に配置されています。

御影堂を正面から。

東本願寺も拝観料が無料なのですが、知らなかったので境内にはあまり入っていません。

本願寺が東西に分かれたのは徳川家康の時代です。そこには浄土真宗という一大勢力を弱めようという家康の思惑があったのですが、元々は織田信長石山本願寺を攻めた時に本願寺側が和睦派と抗戦派に内部分裂し、その対立が後継者問題とも絡んでしまったのを後の徳川家康に利用されたのが遠因です。

こちらは東本願寺前市民緑地。

市道東本願寺所有の植樹帯がこのエリアにあった事から、市とお寺が協議して整備したもので、愛称「お東さん広場」として2023年に完成しました。

見通しがよく、早朝の散歩にも非常に適した広場だと思いますね。